ヴォルテール『カンディード』/ 苦難の果てに「私たち」が集う物語
仏文50チャレンジ第3回の感想は、第11位のヴォルテール『カンディード』(光文社古典新訳文庫、斉藤悦則訳)についてです。
前回『ベラミ』の感想はこちらから。
あらすじ
ドイツ・ウェストファリアのツンダー・テン・トロンク城にて、領主の甥であるカンディードは、領主の娘クネゴンデに口づけをしたことが見つかり、尻を蹴られて暮らしていた城から追放される。
哲学者パングロスの教えに従い「あらゆるものは最善の状態にある」という最善説を信じるカンディードは、戦禍や大地震、異端裁判など度重なる苦境を潜り抜け、ヨーロッパから南米へと巡り、そして再びヨーロッパへと戻ってくる。
全ては最善である、のか?
1759年に刊行された本書は、七年戦争(1754年-1763年)の最中であり、またフランス国内で戦争による財政悪化や啓蒙主義の発展などフランス革命への下地が築かれる中であった。
物語の主軸となるのは、「全能で善なる神が選択したこの世界は、したがって最善である」というライプニッツ哲学に基づく最善説である。
そしてこの主軸は、宗教対立、異端裁判と火あぶり刑、暗躍する修道士、リスボン地震、植民地と奴隷、梅毒、王位を奪われた者たちなど、当時の様々な現実によって取り囲まれている。*1
最善なる世界に、悪は存在し得ない。なぜなら悪の存在は、神の全能さを否定するものだからだ。ではカンディードたちを苦しめ翻弄するこれらの存在や現象は一体何なのか?これらの過酷な現実も、神の思し召しによるものであり、やはり全ては最善なのか?
『カンディード 』は、この疑問によって最善説への信仰が揺さぶられる様が、そのままストーリーとなったものとも言える。その意味では、遠藤周作の『沈黙』と物語のイメージは近いかもしれない。
旧世界(ヨーロッパ)と新世界(南米)の行く先々で、これらの現実を反映した事件に巻き込まれ、出会いと別れを繰り返し、なんとか潜り抜けつつ生き延びるさまは、まるで『タンタンの冒険』のような冒険劇のようでもあるが、所々に散りばめられるナンセンスさや不条理さは、割とドス黒さがある(後半に割となんでも金で解決してしまうあたりとかも含めて)。
死を回避し復活を繰り返す者たち
この作品では、死んだとされた登場人物が実は死んでいなかった、あるいは生き返ったという仕掛けが複数登場する。
例えば、
- クネゴンデはブルガリア兵に辱められたあげく、腹を切り裂かれた死んだ、とパングロスは説明するが、実際そのブルガリア兵士は上官によって殺されておりクネゴンデは助かっている。
- そのクネゴンデが「喉をかき切られた」と話す彼女の兄は、埋葬の際になってイエズス会の神父に救われ、3週間で傷を癒し自身も神父になる。
- パングロスは、絞首刑に処されたのち解剖の献体として買い取られ、胸を十字に切り裂かれた際、叫び声を上げて復活する。
こんな形で、カンディード含め主要な人物たちは確固たる死を回避し続け、また復活においても、伏線も何もなく一度退場したものたちが行く先々に再配置・再利用されている。
このキャラクターの不死性は、100tハンマーで殴られても死なない、(ドリフ的な)斬られても斬られても死なないキャラクターなど、今の視点で考えると割とベーシックなギャグコードだろう。死なないということは、それだけで物語を面白くするのだ。『カンディード』はそのコードを繰り返し使用する。
そういえば、先に『タンタンの冒険』のようと書いたが、タンタンや主要な登場人物もまた死を免れた者たちであるし、パングロスの信念が強いあまり現実に動じないちょっとおとぼけな姿はビーカー教授と重なる。
誰も真実を把握できない
もう一つ、『カンディード』で繰り返される死と復活は、誰も真実を把握できていない、ということも表しているかもしれない。 耳にすることはおろか、自分で目にすることでさえ、大概間違っており、人の認識がいかに曖昧なものであるかが常に例示されている。
そんな中で、「最善説」のみを信じ続けることができるだろうか。しかもその説でさえ、結局はパングロスの講義による受け売りなのだ。
何より、あれほどまでに探し求めたクネゴンデに対しても、時を経て容姿が変わってしまった後には、「心の底では、クネゴンデと結婚したいなどとは少しも思っていなかった」と言ってしまうのだから。
カンディードの苦難の旅路と別れと再会は、そのすべてを持って最善説への疑義、つまり「とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ」と言う最後の一言へと至るようにできている。
「とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ」
『カンディード』の最後は、この読者への投げかけられる有名な句によって締め括られている。
パングロスが「これまでの苦難のおかげで今がある、やはり全ては最善だ」と語るのに対し、カンディードは、次のように言う。
「お話はけっこうですが」カンディードは答えた。「とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ」
これはカンディードがついに「最善説」を横に置けるようになった変化を表している。
原文では、
Cela est bien dit, répondit Candide, mais il faut cultiver notre jardin.
となっている。
訳では「自分の畑」となっているが、原文では「notre jardin」=「私たちの庭(畑)」であり、「mon jardin」=「私の庭(畑)」でないことに、個人的には注目しておきたい。
最後まで最善説を説こうとするパングロスを、「いえ、私は私の畑を耕さなければいけませんので」と拒絶をしているわけではなく、パングロスも畑を共有する一人であることが示されている。
全能なる神による最善なる世界を最後に疑いはしても、神そのものを否定し、共同体から独立し完全に個人に至るまでではないのだ。
この点について、解説を記した渡名喜庸哲氏は以下のように論じている。
「土地を耕す」ための「二本の腕」と「理性のかすかな光」とを与えられた私たちができることは、働きながら、「自然」の声に耳を傾け、自らの弱さと無知とを自覚しつつ、たがいに助け合うことだということになるだろう。意見が異なるものがいるとしても、そうした多様性こそが「自然」の命じたところであるのだから、われわれはそうした他者の存在を許容して、対話を続けなければならないということだ。
ストーリー内の死なない人物たちは、議論が決裂しても、その意見そのものは消滅させてはならないことの比喩とも言えるだろうか。そしてたとえ真理に辿り着かなくとも、探究をやめてはならない、そして対話を続けなくてはならない。
さらに、以下のように続く。
その意味で、カンディードが数々の苦難の末に自分自身の「畑」にたどり着いたとき、クネゴンデはもうかつてのように美しくなかったかもしれないけれど、彼がロビンソン・クルーソーのようにたった一人ではなかったということ、このことは多いに示唆に富んでいると思われる。
対話には他者の存在が不可欠である。登場人物たちが、旧世界と新世界で様々な運命に翻弄されつつも、死を回避し再会を繰り返すのは、最後にこの「畑」に集う「私たち」になるためだったのではないだろうか。そして、自分の畑を耕す意味は、今もなお変わらず存在し続けている。