ギュスターヴ・フローベール『ボヴァリー夫人』/ 過去の無力さを埋める野心という希望
仏文50チャレンジ第9回の感想は、第7位の『ボヴァリー夫人』(新潮文庫、生島遼一訳)についてです。
前回『シラノ・ド・ベルジュラック』の感想はこちらから。
あらすじ
医学を修めたシャルル・ボヴァリーは、ルーアン近郊で開業医となる。最初の妻が亡くなったのち、患者であった農場主テオドール・ルオーの娘エマと再婚する。
陶酔的に小説を読み、空想のうちに理想を作り上げるエマにとって、凡庸な性質のシャルルとの結婚は、情熱がなく、夢見たものとはまるで違うものであった。
結婚への幻滅から、エマはやがてレオンとロドルフという二人の男性との情事を重ね、次第に破滅へと進んでいく。
エマに課された野心
2021年はフローベール生誕200周年ということで、出身地であるノルマンディを中心に展覧会などが開催されている。
ナポレオン3世による第二帝政時代の1857年に発表された『ボヴァリー夫人』は、実際に起きた事件を題材にし、緻密な人物・舞台描写を徹底し、フローベールを本人の意志とは別に写実主義の代表作家へと至らせる。
主人公エマが、満たされない状況から脱しようともがき不倫の沼に落ちていくさまは、正直苦々しささえ感じてしまう。
それでも「拗らせ」という言葉に収まりきらない、彼女に渦巻くあまりに大きなエネルギーは、エマに課された野心に他ならない。
野心は、これまでに読んだ『赤と黒』や『ベラミ』など19世紀フランス文学において、ナポレオンを原型として、主人公の根源的な動機として存在していた。
エマの理想では、それはシャルルによって成し遂げられることを望んでいたはずだ。しかしそこに期待しても無意味であると悟り、女性のエマが自身の幸せのためその役割を負う。理想が叶わぬからこそ、現実では誰よりも強い眩さを見せる。
エマの男女観について、面白い描写がある。
男の子をもちたいというこの考えは、過去の自分のあらゆる無力であったことを希望でうめあわせすることなのだ。男はとにかく自由である。彼は情熱や国々をかけめぐり、障害をのりこえ、もっとも遠い幸福にも野心をもつことができる。
だが、女はたえずじゃまされるばかりだ。(中略)女の意志は、かぶっている帽子の紐でとめたヴェールのように風のまにまにひるがえる。いつもなにかの欲望にひきずられ、なにかの世間体にひきとめられている。
この部分は、F・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』で、デイジーが「子供が女の子でよかった。女の子は美しくおバカさんなのが一番」と語る場面をを思い出させる。見事にエマの考えを反転したものになっている。
男性の性質として語られる「情熱に動かされ、障害を乗り越え、幸福を掴もうとする」のは、他ならぬエマ本人だ。「ボヴァリー夫人は私だ」とフローベール自身が言ったとするなら、その意味はここにあるのだろう。
しかし同時に、エマの願いはロドルフやレオン側の都合によっていつも成就せず、言葉通り風にひるがえされてしまう。エマは男女両方の性質を兼ね備えながらも、結局越えられない壁に阻まれ自滅していくのだ。
そして残念ながら、引用箇所の僅か2行後に女の子が生まれてしまい、エマは気が遠くなるのである。
中流階級のルサンチマンと転落
本作では、社会の上流から下流まで様々な人物が描写され、リアリティを生み出している。
結婚後に侯爵家での舞踏会に招待され、別世界の空気を吸い込み、元の暮らしの中でも渇きだけが残ってしまったエマの葛藤は、中産階級のルサンチマンと呼べるかもしれない。
社会的地位もあり、家には女中を抱え、土地もおそらく年金もある。それでも家計を気にせず優雅に生きていけるほどではなく、貴族との間には高く階段が積み上がっている。
結局エマにとっては、シャルルが頼りにならない以上、自身の野心と自尊心を満たしその階段を上ることが目標であり、恋愛すらもその手段に過ぎなかったのではないか。
不倫を重ねるごとに、借金も積み上がっていき、彼女は自ら毒を食う。
司祭が祈祷をあげる中、エマは恍惚とした神秘を味わいながら徐々に死に至りつつあるのだが、フローベールはここで彼女を穏やかには死なせない。
今いる場所ではない、どこか別の場所を、もっとその先を、と求め続けた結果、最後に彼女の耳に聞こえたのは、盲人の浮浪者の声であった。
絶望と狂気と痙攣という強烈な転落を見せる展開に、エマも読者も、背中を刺されたような衝撃の中で最期を迎える。
ボヴァリー夫人となりエマは声を得るが・・・
エマの愛人の一人であったロドルフは、エマをその名前で呼び、このように続ける。
私の心をいっぱいにしていて、つい口から漏れてしまったこの名、この名をあなたは呼んではいけないといわれる。ボヴァリー先生の奥さん……これは世間でみんなが呼んでいる呼び方だ……これはあなたの名じゃない。別の人の名なんです
「ボヴァリー先生の奥さん」という箇所は、原著では「Madame Bovary」となっている。
マダム・ボヴァリーはあなたの名ではない。
故に「エマ」と呼びかけることは、一人の女性にむけて呼びかけているのであり、ロドルフの思いを告白している(実際はそれ自体もロドルフの遊びであるのだが)。
エマとシャルルは物語早々に結婚するが、結婚まではシャルルの人生がメインに語られ、旧姓エマ・ルオーとしてのエマはほとんどそこに絡んでこない。彼女の過去について語られるのも、結婚してからだ。
つまり、エマはシャルル・ボヴァリーと結婚し「ボヴァリー夫人」になったからこそ、物語の舞台に上がることができ、声を得た。その声は「過去の自分のあらゆる無力であったこと」に対抗するものだった。しかし舞台に上がったがために、満たされない欲求を追い続ける人生が始まる。恐ろしく皮肉な話だ。
生々しく積み上げられた物語は、どの角度からも読み解ける深度を有しているが、フローベールは本作に「地方風俗(Mœurs de province)」という副題をつけている。「フランスで多くのマダム・ボヴァリーが、今この瞬間にも涙し苦しんでいる」という作者の言葉にある通り、エマの強烈な人生も地方の一風景なのだとするこの副題の持つ意味は重い。