ギ・ド・モーパッサン『ベラミ』/ 「悪漢の種子」の成長譚
仏文50チャレンジ第2回の感想は、第10位のギ・ド・モーパッサン『ベラミ』(角川文庫、中村佳子訳)についてです。
前回『赤と黒』の感想はこちらから。
『ベラミ』は、パリでくすぶっていた主人公ジョルジュ・デュロワが、新聞社の記者に就くことをきっかけに、その美貌を武器に女性との情事を重ね、野心を成し遂げていく物語だ。
ベラミ(Bel-Ami)とは「美しい男友達」という意味になり、作品内ではジョルジュを認め惹かれる者たち(ロリーヌ、ド・マレル夫人、ヴァルテール夫人、ヴァルテール社長、そしてシュザンヌ)が使用する呼称となっている。*1
ジョルジュは、相手の女性が変わるたびに新たな地位や資産を手に入れ、社会を上昇していく。この説明だけだと、『赤と黒』の物語、そして主人公ジュリアン・ソレルが思い出されるが、実際読んでみると、志や気位の高さを持つジュリアンに対し、ジョルジュは人としてのえげつなさが際立つ。
恩人である友人の死に「思ったよりあっけなかった」と呟き、自分を非難する女を殴り倒し、不倫相手の主人を前に「おいおいおじさん、おれはあんたの女房を寝取ったんだよ、寝取っちゃったんだよ」と心で嘲り悦に入る、など。
そしてゲスさは物語とともに加速する。
ジョルジュは、何にも勝る出世欲のもと、「なに事かをきっかけに成功できる」という自信を持ってパリにやってきた。そのきっかけというのが、「偶然に道で出会った銀行家か大地主の娘の心をいっぺんに征服して結婚する」という設定だったりするあたり、ナルシシズムが完成されている。しかし『ベラミ』とは結局、この妄想設定を実現し続ける物語なのだ。
物語序盤ではその成功に程遠いのだが、「ぼくに足りないのはやる気じゃない、手立てだ」という弁にあるように、手立て(les moyens)、つまり手段が見つかっていない、という自己評価を下している。
逆に言えば、手段が見つかれば社会で成り上がれると確信している。重要なのは自身がどう振る舞うかではなく、「手段」である他者が存在するかどうかであり、そして他者の存在こそが、彼の意識や行動を導き、さらなる野心を抱かせるのだ。*2
美しき 「悪漢の種子」
作者であるモーパッサンは、ジョルジュの人物像について、
私は、最初の行から、悪漢の種子の存在を提示しており、その種子は落ちた大地で成長する。その大地とは新聞のことだ。
ジョルジュは自分の未来を女性に託している。ベラミというタイトルが、それを十分に示唆していないだろうか?
と語っている。*3
種子に、芽生えよ伸びよという意志はいらない。条件や環境が合えば自然と生まれいづるものであり、あとは光の指す方へ伸びていくだけなのだ。
ジョルジュの天井知らずの欲望と他者を道具に自己実現をなすその性格を非常に的確に表している。
とは言え、ジョルジュは何も持っていない凡人なわけではない。彼は類稀な美貌を持っているのだ。
軍役時代の同僚であり、ジョルジュに記者の仕事を紹介する(つまり最初の手段としての他者である)友人シャルル・フォレスティエの夕食会に呼ばれ、物語の主要人物(この後に手段となる人々)と面会する場面の描写は非常に面白い。
ゆっくりと階段をのぼる。動悸がした。気が重く、なにより笑われるんじゃないかという恐れに苛まれていた。すると、突然、目の前に見事な身だしなみの紳士がおり、じっとこちらを覗っているのに気がついた。距離があんまり近かったので、デュロワはうしろに退がった。そうしてあっと固まった。それは鏡に映った自分自身だった。背の高い姿見が二階の踊り場を長い廊下に見せている。喜びにぶるりと震えた。思っていたよりましだと思った。
他人、特に今の自分より上層にいる者からの嘲笑は、プライドが高いジョルジュにとっては耐え難い屈辱であり、恐れすら引き起こす。その恐怖が投影され、自分の姿を別人に錯覚させるのだが、その恐怖と錯覚を剥ぎ取り真の姿に導くのは、自分の美貌なのだ。
ナルキッソスは水面に映る美しい自分の姿がその身を滅ぼしたが、ジョルジュはそれがパリでも自分の身を救う切り札と確信した。
うだつの上がらない日々からの脱却が始まるのは、まさに階段に登りつつ上昇する術を再発見するこの瞬間であり、個人的にこのシーンは気に入っている。
欲望の転換
ここで、『赤と黒』以降となる19世紀後半のフランスの歴史を簡単に見ておきたい。
1848年 | 二月革命によりルイ=ナポレオン(のちのナポレオン三世)が大統領に選出、第二共和制開始 |
1852年 | ルイ=ナポレオンがクーデターを起こし、皇帝ナポレオン3世として即位、第二帝政開始 |
1853年 | ジョルジュ・オスマンがセーヌ県知事に就任(1870年まで)、パリの都市改造計画を推進 |
1870年 | プロイセンに宣戦布告し普仏戦争が開戦するも、フランス敗北、ナポレオン3世は捕虜となり廃位しイギリスに亡命、第三共和制開始 |
1871年 | パリ・コミューン(3月から5月まで) |
1885年 | 『ベラミ』発表 |
1889年 | エッフェル塔竣工 |
1894年 | ドレフュス事件 |
本作が発表されたのは、普仏戦争の敗北とナポレオン3世の亡命により帝政が終了し、第三共和制が開始した時代となっている。
先に引用した島本孝治氏の論考で、ジョルジュの欲望の転換について触れられている。
最初には野心と愛との間の価値基準で、次のように語っている。
それでも人生には唯一のことがある。愛だ!愛する女をこの手に抱くこと!それこそが、人間がぎりぎり得られる幸せなのだ
しかし、物語が進んだ先には、野心が勝利しエゴイズムに取り憑かれることになる。
気を揉むなんて、莫迦のすることだ。自分のことだけ考えてりゃいいんだ。ずうずうしい人間が勝つんだ。所詮、すべてのものはエゴイズムだ。それなら、女や愛に対するエゴイズムより、野心や金に対するエゴイズムのほうがいい
この転換から島本氏は、ジョルジュを革命後のフランスで大きな権力を持つこととなったブルジョワジーと結びつけ、当時の社会のカリカチュアであることを説明している。
『赤と黒』では、ジュリアンが貴族や聖職者の道によって社会の上層へ至ることを希求し、やがて転落することでそれらへの痛烈な批判を展開した。50年後に描かれた『ベラミ』では、この社会の上層がブルジョワジーに取って代わられた世界であり、ジョルジュの価値観の転換は、社会構成の転換と同期している。*4
個々の心理描写に重点を置き、風俗的な描写を省略したスタンダールに対し、モーパッサンはジョルジュのゲスさとパリという都市の持つある種の猥雑さをリンクさせ、その生活の匂いをそのまま描写している。ジョルジュの生々しい欲望は、そのままその時代のパリ、そしてそれを牛耳るブルジョワジーの投影だと気付かされる。
周縁から中心へ移動
作中に登場する場所は、そのほとんどで具体的な通りや住所が示されている。例えば、
8区 |
- ジョルジュの逢引き部屋があるコンスタンティノープル通り - ジョルジュとヴァルテール夫人が会うモンソー公園 - ヴァルテール家が最初に住むマルゼルブ大通り(あるいは17区) - ヴァルテール家が引っ越すフォーブール・サン=トノレ通り - ジョルジュとシュザンヌが結婚するマドレーヌ寺院 |
9区 |
- ジョルジュとシャルルが最初に訪れる「フォリー・ベルジェール」 - 新聞社「ラ・ヴィ・フランセーズ」があるポワソニエール大通り - シャルルとマドレーヌが住むフォンテーヌ通り - ジョルジュとヴァルテール夫人が会うサント・トリニテ教会 - マドレーヌとラロッシュ=マチユの使用するホテルがあるマルティール通り |
17区 |
- ジョルジュが最初に住んでいるブルソー通り |
18区 |
- ジョルジュとド・マレル夫人が通う店「ラ・レーヌ・ブランシュ」(現在のムーラン・ルージュのある場所) - ジョルジュと離婚後のマドレーヌが住むモンマルトル |
これらは全てセーヌ右岸が舞台であり、左岸で出てくるのはド・マレル夫人が住むヴェルヌイユ通りとノルベール・ド・ヴァレンヌが住むブルゴーニュ通り(いずれも7区)くらいだった気がする。
代表的な舞台を地図にマッピングしてみた(1枚目は現在の地図、2枚目は当時の地図)。
ジョルジュの最初の部屋があるブルソー通り、バティニョールと呼ばれる地区は、当時のパリでは周縁に等しい。『ベラミ』はこの周縁に始まり、右岸をさまざま移動しながら、最終的にマドレーヌ寺院などパリの中心へと移動する物語となっている。
これは、ジョルジュの出身地であるルーアンからパリへの移動に始まる。そして、このルーアン→パリの北から南(北西から南東)への移動は、バティニョール→マドレーヌ寺院への方位と重なる。またヴァルテール家も同じく、マルゼルブ大通りからフォーブール・サン=トノレ通りという中心部へ南下している。
一方、最初の妻マドレーヌは、ラロッシュ=マチユ大臣との不倫現場をジョルジュと警察に押さえられ、大臣共々物語から退場する。彼女は物語の最後にポワソニエール通りからモンマルトルへ引っ越していることが明かされ、これは地図で言えば北上(=周縁に向かっての移動)にあたり、場所と人物の上昇あるいは転落がリンクしているように思える。
ちなみにこの不倫現場突入の場所となったのが、マルティール通り(Rue des Martyrs)で、「殉教者たちの通り」という意味だったりするのが苦々しい。
コンコルド広場
場所について、もう一つ面白いと感じたのは、ジョルジュは勤務先の新聞社の社長令嬢であるシュザンヌをたぶらかし、自分と駆け落ちをさせ、コンコルド広場で落ち合う約束をする。この場所は、フランス革命の際ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑された場所だ。
この駆け落ちが失敗すれば、シュザンヌはともかくその先に約束されている巨額の相続はもちろん新聞社での仕事も失ってしまう。首がかかった賭けの場所としては最適な場所と言える。
結果として、ジョルジュはこの賭けに勝利し、作品内で最大の成功者であったヴァルテールをも屈服させることに成功し、作中の最大の高みに至る。その姿はまさに神に祝福された支配者・征服者であり、姓であるデュロワ(Duroy)がその内に含む「王(roi)」が具現化した形となった。
しかし同時に、この100年の革命の歴史にあるように、もはやフランスで「王」は長く存在しえない。「王」となった以上、ジョルジュの転落もやはり約束されているのだろう。
おわりに
最初に読んだときはジョルジュの人間性に衝撃を受けるが、それ以外の部分にもKindleでハイライトした文章は非常に多かったことに気づく。島本氏の論考のおかげでそれらの道筋が掴めるような感覚があり、途端にこの作品の印象が変わった。40年前に書かれたこのテキストには感謝するばかりだ。
本書の訳者中村佳子氏(ウェルベックの訳者でもある)は、あとがきで、「モーパッサンが、ベラミというヒーローに託した闘いとはなんだったのか?果たしてベラミは勝ったのか?それを考えるのが『ベラミ』の醍醐味なのだ」と書く。
ジョルジュのクズっぷりを受け止めた先に、あちこちに散りばめられたモーパッサンの眼差しが見えてくる。
*1:最初の妻となるマドレーヌが彼を「ベラミ」と呼ばないのは、彼女がジョルジュに屈服しない側の人間であることを表しているだろう
*2:島本孝治、『ベラミ』における欲望の形成とその変容 - 広島大学 学術情報リポジトリ
*3:Guy de Maupassant, Aux critiques de « Bel-Ami »
*4:フランスの名前でド・マレル=de Marelleのようにdeが姓の前につくのは、貴族とのつながりを意味する。マドレーヌは、この貴族名を「きらきら輝くものや、響きのいいもの」と呼んでおり、『赤と黒』の時代とはずいぶん価値観が変化している。またヴァルテールは困窮した貴族から家を買い取る点も社会構成の転換の一例だろう