セリーヌ『夜の果てへの旅』/ 悪意の泥沼を進み続ける厄祓いの物語
仏文50チャレンジ第10回の感想は、第6位の『夜の果てへの旅』(中公文庫、生田耕作 訳)についてです。今回も物語の結末が含まれています。
前回『ボヴァリー夫人』の感想はこちらから。
あらすじ
パリの通りを行進する軍隊に気まぐれのごとく参加したフェルディナン・バルダミュは、第一次世界大戦の戦地へと送られる。食糧が乏しく眠ることが許されない激戦地の過酷な経験の中、脱走兵のレオン・ロバンソンと出会う。
負傷によりパリに戻ったフェルディナンは、アフリカ、アメリカ、再びフランスと生きる場所を変える。行く先々で再会するロバンソン、そして各地の人々の現実とそこに渦巻くあらゆる感情や欲望を語りつつ物語は進んでいく。
悪意の泥沼を進む
人間は皆意地悪だ、それ以外のものは人生の途中でどっかへ消えちまったんだ
本作『夜の果てへの旅(Voyage au bout de la nuit)』は、2つの大戦の間である1932年に医師であったルイ=フェルディナン・セリーヌにより発表された。
巻末の解説にて訳者の生田耕作氏が、「現代社会の病根を完膚なきまでに摘出した」と評する通り、本作は作者と同じ名を持つフェルディナンが、第一次世界大戦中と戦後の世界が内包する邪悪さを徹底的に語り尽くす作品だ。
アフリカでは植民地主義、アメリカでは資本主義、ヨーロッパにおける戦争。
そこには、そのイズムの中で成立する均衡が存在する。
アフリカでは白人は黒人をモノのようにこき使うが、実は黒人側にも白人を利用する側面が見られる。そういった人間の歪な均衡の中、フェルディナンを苦しめるのは毛虫やしらみ、赤蟻という「取るに足らない」存在であるのが面白い。
「取るに足らない」ものにこそ邪悪さがある。
フェルディナンは旅のごとく、そして逃亡するがごとく世界を駆け巡っているが、物語そのものにおいては実は淡々と日常が進んでいく。
僕は自分の悪癖の、到るところから逃げ出したい欲望を愛していた。
人が仕事をし、食べ、娯楽をもち、色に溺れる。
人間の邪悪さを見るには、何も戦争のような極限状態にある必要はない。何よりこの作品内で戦争の直接的描写は非常に少ない。
むしろ日常にこそそれは普遍していることをフェルディナンは暴いていく。
その意味で、この作品は究極の日常系小説と言っても良いかもしれない。
例えばどんな人間がいるかというと、
・前線送りを免れパリにいたにもかかわらず、帰還兵に張り合うように「こっちもひどかった」と語る宝石商。
・根拠なくフェルディナンの悪評を流布し、彼が殺されるように仕向ける女教師。
・母性本能を満たすべく子供の支援をするが、そのカゲで「あたしが欲しいのはあんな慕われ方じゃない」と子供にケチをつける女。
・厄介な母親を疎んじ、ついには殺してしまおうと考える夫婦。
嫉妬、見栄、恨み、軽蔑、偏見、傲慢。
単純な悪ならまだしも、こういう心をえぐるタイプの悪意はタチが悪い。
フェルディナンが足を踏み入れるのは、いつもこういった悪意の泥沼である。そしてその悪意の沼から離れようとはせず、ただ進み続ける。
それなら、その先で出会う人々から悪意が浮かび上がったとしても驚くことではない。
厄祓いの物語
セリーヌの研究者である杉浦順子氏のテキストによると、1930年3月『夜の果ての旅』執筆中であったセリーヌは、友人に向けて以下のように書いているそうだ。
まずは戦争、他のすべてはそれ次第で、まずはこの厄を祓うのが問題です*1。
作者セリーヌは1912年、18歳の時にフランス軍に入隊している。1914年、第一次世界大戦開戦後に西フランドルの戦地に送られ、同年10月に負傷。この怪我により戦闘不適格とされ除隊することになる。
それから15年経った1930年に、戦争経験の厄祓いとして『夜の果てへの旅』の執筆が言及されているのだ。大戦への従軍はわずか1-2年足らず(うち、前線への従軍はおそらく数ヶ月程度)であったはずだが、それがいかにセリーヌにとって大きな経験であったかがうかがえる。
この物語は、戦争により始まり、数々の再会ののちロバンソンの死で幕を閉じる。
ここで興味深いのは、国民射的場(tirs des nations)という、つまりは祭りの射的が作中のはじめと終わりで2度出てきていることだ。
1度目は戦場からパリに戻った際、恋人と遊びに行った祭りに登場し、フェルディナンは戦争のフラッシュバックを起こし発狂する。
「みんな逃げるんだ!」大声で僕は警告を喚き立てた。「逃げるんだ!撃たれるぞ!殺(ばら)されるぞ!みんな殺されるぞ!」
2度目はそれから15年後、再びパリでフェルディナンとロバンソン、それぞれの恋人と遊びに出かける時に登場し、ここでは発狂は生じない。
しかし、その代わり、ロバンソンは恋人に銃で撃たれてしまう。
フェルディナンは、「旅とは、結局このとるにたらぬしろもの、いくじなしのための小さな眩暈の追求だ」と言っているが、戦争後の15年の旅路で積み重ねた「小さな眩暈」は、少なくともフェルディナンを発狂から防ぎ、自己の回復に導いた。
そして、2度目にロバンソンが撃たれ命を落とす。
ロバンソンは、フェルディナンが「そこにいる」と思う先に必ず現れる。実は所々で「ロバンソンは本当に存在するのか、あるいはフェルディナンの妄想か」とその存在が疑わしくなる箇所もある。
戦場でフェルディナンに亡霊のごとく取り憑いたロバンソンが、ついに消えてしまう。
戦争の狂気が完全に取り祓われたと言い切ることはおそらく難しいだろう。が、かくして作中における厄祓いの試みは為されたのだ。
ちなみに杉浦氏は
一時的に失明したロバンソンは、一旦はマドロンと恋に落ちるが、再び視力を取り戻すと、この関係から逃げ出そうとして彼女に殺される。この恋愛ドラマには、明らかに愛国主義戦争に盲目的熱狂で加わった14年の兵士のドラマとが重ねられている。
と指摘している*2。
ロバンソンはフェルディナンの分身であると同時に、大戦に関わり喪失と裏切りを経験したあらゆる兵士の投影でもあるというこの指摘は、この「厄祓い」の物語にさらなる厚さと重さを生み出している。
今セリーヌが語られる文脈
セリーヌといえば、作者のネガティブな評価を作品も引き継ぐか、あるいは切り離されるべきか、という問いにおいて名前が挙げられる筆頭格だ。
セリーヌの場合、作者を正面から評価することは困難でありつつ、その著作の評価はフランス文学の重要作品の一つとして不動の域に達している。実際、本屋から作品が撤去されることはなく、2021年は没後60周年ということもあり、大手書店で一目につきやすい場所に陳列されているのも見かけた。しかし、晩年の生家の公的な保存や美術館・資料館化は今尚困難であるようだ*3。
本作では、大戦後の世界、人間、社会が持つあらゆるグロテスクさを暴き続けるその眼差しこそが作品を動かし続ける。
野心や大恋愛、大河的人生や復讐など、大義で裏打ちされた、いわば正統とも言えるようなフランス文学作品をこの一年読んできたが、『夜の果てへの旅』にはそれらを過去のものにするだけの力があった。
おそろしく強烈な一冊だった。
*1:「戦争とメランコリー、あるいは新世紀病 一L−F.セリーヌの『夜の果ての旅』読解一」、杉浦順子、関西フランス語フランス文学、2005、11巻、p.40
*2:杉浦、p.46
*3:La maison de Céline, emblème de la réhabilitation impossible d’un écrivain maudit