ジャン・アヌイ『アンチゴーヌ』/ 譲れない原理が対決する、フランスが生きた悲劇
仏文50チャレンジ第7回の感想は、第15位の『Antigone(アンチゴーヌ)』(La Table Ronde)についてです。
前回『うたかたの日々』の感想はこちらから。
あらすじの前に
劇作家ジャン・アヌイによる『Antigone(アンチゴーヌ)』は、古代ギリシア三大悲劇詩人であるソポクレースによる悲劇『アンチゴネー』を下敷きにし、新たな戯曲として描かれた作品だ(制作は1941-42年、初演は1944年)。
『Antigone(アンチゴーヌ)』の日本語訳は、1988年白水社の『アンチゴーヌ―アヌイ名作集』(芥川比呂志、鈴木力衛訳)に収録されているようだが、これがなかなか入手困難だったので、今回初めて作品を原著で読んだ。
先に原作とも言える『アンチゴネー』(中務哲郎訳)を読み内容を把握したおかげもあり、また戯曲なので会話がメインで全体も120ページほどで、フランス語でも割と読みやすい。
あらすじ
「父を殺し、母と交わる」と予言されたテーバイの王オイディプスの娘アンチゴーヌ。
オイディプスの死後、彼女の二人の兄エテオークルとポリニスは王位を巡り衝突、相討ちとなり共に命を落とす。
新たに王となった叔父クレオンは、テーバイを守ったエテオークルは英雄として丁重に葬り、テーバイに攻め入ったポリニスは反逆者として遺体をそのまま放置し埋葬禁止を命じる。
その命に逆らい、ポリニスの遺体を弔おうと一つかみの土をかけたアンチゴーヌは、衛兵に捕まり、クレオンの前に連行される。アンチゴーヌとクレオンの対決が始まる。
執筆の背景
アヌイは1941年から42年にかけて本作を執筆したとのことで、フランスがナチス・ドイツに占領され、親独のヴィシー政権下で制作されたことになる。また1944年8月にパリ解放なので、44年2月の初演も占領最終期に行われたことになる。
仏語版の裏表紙に、アヌイの言葉として以下のように書いてある(訳は筆者による)。
誦じるほど何度も読み返したソポクレースの『アンチゴネー』は、戦時下、赤いポスターが貼られた日に、突如として私にとって一つのショックとなった。私はこれを、当時我々が生きた悲劇への共鳴とともに、自分のやり方で書き直した。
赤いポスターとは、「ナチス・ドイツ占領下で反ユダヤ主義、外国人嫌悪、そして恐怖心を煽るためのプロパガンダとしてヴィシー政府が15,000部以上作成し、パリの至る所に貼り付けたポスター」のことだそうだ*1。
ヴィシー政府による「お達し」は、そのままクレオンがテーバイ中に発した「埋葬禁止令」と重なっている。そして、ここに権力者、貶められるもの、服従しないもの、の3者の構造が浮かび上がる。
クレオンVSアンチゴーヌ
この物語の見どころは、なんといってもクレオンとアンチゴーヌの対決にこそある。
この二人の対決は、「理解」と「拒否」、「Oui」と「Non」、それがそのまま「生」と「死」へと繋がる。
アンチゴーヌは周囲への盲目的な理解を拒否し、自分の意思によりポリニスを埋葬し、死を望む。当初クレオンは自分の処刑を見逃そうとするが、彼女にとってそれは自身を惰性にゆだね、自らの自由意志を放棄することであり、受け入れることはできない(=Non)。
アンチゴーヌが求めるものは次第に、兄の埋葬ではなく、唯一人抵抗した者として「死ぬこと」自身へと変化する。
一方、元々愛する音楽や文学を打ち捨て王位を受諾した(=Oui)クレオンは、アンチゴーヌの強い意志が、他の者にも影響し、国の秩序が乱れることを危惧し、彼女を刑に処することを決める。
国家とは、また王とは何かを理解するが故に、国家の長という立場がクレオン個人の思想を掻き消し、「王」の決断を下させている。
両者が、互いにそれぞれの矛盾を突き合い、譲れない意思をぶつけ合う。譲れない、「けっして他に還元することのできない原理」の対決だからこそ、結果、死と犠牲が積み重なり、幕を閉じる*2。
クレオンが表すもの
ソポクレースの『アンチゴネー』では、神の法(死者は埋葬すべき)と人間の法(埋葬を禁止する)の対立が描かれるが、アヌイはその背景の世俗化させ、人間同士の対立に持ち込んだ。
特にクレオンの人間性は非常に深く掘り下げられており、アンチゴーヌと鏡写になるようなキャラクターが生み出されている。
先にヴィシー政権とクレオンが共に権力者という立場において重なると書いたが、「王」に「個人」が飲み込まれるようなクレオンの二重性を、当時のフランスにおいてどう捉えたら良いか。
フランスの意思を飲み込み、力学の頂点に立つもの。それはもちろんナチスとなるだろう。
作者アヌイが、ヴィシー政権やその首長フィリップ・ペタンを、クレオンのような人間的な葛藤を抱えたものとして肯定的に描きたかったものとは思わないが、アヌイの言う「当時我々が生きた悲劇への共鳴」には自由や意思を奪われたもの、そしてそれを取り返すために立ち上がったあらゆるものが含まれるのだろう。
おわりに
展開やセリフに緩急・強弱があり、読んでいると、舞台上でクレオンとアンチゴーヌがどんな風に演じられるのか想像させる。特にアンチゴーネは、短いセリフに彼女の意思や葛藤、苦悩の告白が詰め込まれており、緊張感が文字を通しても伝わってくる。
どうやら、2018年に蒼井優と生瀬勝久による『アンチゴーヌ』の舞台が行われていたようだ。
蒼井優へのインタビューがこちらから読めるのだが、これがすごいのでぜひ読んでいただきたい。
彼女の言葉を引用すると、
アンチゴーヌは世界に生まれた子という感じですが、一方、クレオンは社会に生まれてしまった、という感じがするんですよね。どちらも間違っていないというか。
何か、世界に生まれた人間なのか、社会に生まれた人間なのか、そういう考えが自分の中にあって。もちろん、人間だから社会の法を守らなくちゃいけないんですけれども、いろいろなニュースとか見ていても、この人がやったことって動物としては間違っていないけど……と思うことが多いんです。世界対社会みたいな。
核心をついてて最高のコメント。機会があればぜひとも舞台を見てみたい。
今回読んだ原著がこちら。基本的なフランス語の文法を学んでいれば、きっと読めるはず。
ソポクレースの『アンチゴネー』はこちら。クレオンは非道な王として描かれており、アヌイ版とは大きく異なっている。
*2:竹部琳昌「アヌイの『アンチゴーヌ』における問題性」、『人文學』116、1970年6月、p.37-80