ボリス・ヴィアン『うたかたの日々』/ 想像力の地平を広げる、悲痛な恋愛物語
仏文50チャレンジ第6回の感想は、第14位の『うたかたの日々』(光文社古典新訳文庫、野崎歓訳)についてです。
前回『三銃士』の感想はこちらから。
あらすじ
空想が現実に存在する世界。十字架のイエスが話し、そしてジャン=ソール・パルトルが熱狂を生み出している世界。
自由気ままに生活できるほどの資産を持つ若者コランは、ある日デューク・エリントンの曲と同じ名前を持つクロエと出会い、結婚する。
幸せの絶頂にあったが、ある日クロエの肺に睡蓮が成長していることが判明。治療のため、コランは花を買い続ける。次第に資産が尽きコランはついに働き始めるが、その努力も虚しく、クロエの体は徐々に弱っていく。
読みながら、子供の頃、口に入れてしまったタンポポの綿毛が、そのまま体の中で芽を出したらどうしようと考えていたことを思い出した。結局、それは今日まで私には訪れていないことだが、この作品では実現してしまう。
『うたかたの日々』は、前半の、シナモンシュガーの匂いのする雲に乗ってデートをするロマンチックな展開から打って変わって、後半はバッドエンドへ急降下していく悲痛な恋愛小説だ。
現実の我々が羨むような空想の数々が存在するのに、本作の登場人物たちは本当に望むものは手に入れられない。追い求め続け、そしてすり減り、やがて破滅に至る。そのさまに、ふとスコット・フィッツジェラルドの『グレード・ギャッツビー』を思い出す。
空想の世界に顕在化する不穏な影
2013年、本作を原作とした映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』(監督はミシェル・ゴンドリー)の公開記念で、訳者の野崎歓氏と菊地成孔氏を招いてのこのような講演会が行われたようだ。
この中で、菊地氏が「フランス文学のテーマは金銭」という考えを示している。
実際この作品でもストーリーを動かすのは「資産の喪失」だ。クロエの肺に睡蓮ができたことは確かに悲劇の始まりであるが、転落は「労働への従事とその失敗」と並走している。さらにその転落は周囲にも波及していく。
前半に描かれていた幸せは、後半ページを捲るのが辛くなるほどにどんどん枯渇していくのだが、それは彼らの資金の喪失とリンクしている。部屋は縮み、そこにいるだけで歳をとってしまうのだ。
ただ冷静に考えれば、物語の始まりから、数々の夢が実在する世界の中にも不穏な影は様々描かれていた。
前半すでにスケートリンクでは転んだ人が重なり死者が出ていて、貧民救済キャンペーンのため子供たちが喉をかき切られるシーンもある。クロエの不調を知ったコランは、もたもたするスケートリンクのクロークスタッフを殺してもいる。
前半のロマンティックな風景をシナモンシュガーでコーティングしていたのは、コランたち、そして読み手である私たちの投影だ。しかしその場所は決して不幸のない理想郷ではなかったのだ。
「肺の睡蓮」がクロエを蝕み出してからは、それまでコランたちの目に入ってこなかった、あるいは目に入っても意識もしていなかった不幸や暴力が強く顕在化するようになる。何より、以下のように考えるコラン自身が労働に身を投じているのだから。
「働くのは嫌いなのですか?」骨董屋がいった。
「ぞっとします」とコラン。「人間を機械のレベルにまでおとしめるのですから」
このような中で、後半変わらず起こり続ける夢のような出来事からは、以前のような甘い香りがしてこない。コランや我々の投影がそのコーティングを剥がしてしまったのだ。
睡蓮とは何なのか?
作者ボリス・ヴィアンは少年期から心臓に疾患を抱えており、体の内部から自身を蝕む「睡蓮」をその表象と考えるのは難しくない。
その上で、読んでいて気になったのは、最後のハツカネズミと猫の以下のやり取りだ(この小説ではハツカネズミも猫もイエスもしゃべるのだ)。
「あの人は睡蓮が水面まできて自分を殺してくれるのを待っているの」
(中略)「つまり、その人は不幸なんだろう?……」
「不幸なんじゃないわ」ハツカネズミは答えた。「心が痛いのよ。それがあたしには耐えられないの。それにいつか水に落ちちゃうわ、あんまりかがみこんでいるから」
水面を覗き込むとなるとまたしてもナルキッソスを思い出す。水面に映るのは自分の投影だとすると、睡蓮はコランということになる。クロエを蝕んでいたのは、コランなのだろうか。
ミシェル・ゴンドリーの映画では、友人シックの恋人アリーズとコランがキスする様子をクロエが気づいてしまう描写があった。これは原作にはない演出だ。コランは間違いなくクロエを愛していたが、同時に彼女を傷つけもしたという形で一つの見解を投げかけているように感じる。
おわりに
原題『L'Écume des jours』は、直訳すると『日々の泡』となる。訳者は「登場人物たちの刹那的、享楽的で、さらにはいささか非社会的な暮らしぶりと、はかなく消えていく運命」をこのタイトルに見出している*1。
泡のように脆い日々でも、心の様子が美しく現実にあらわれるシーンが多数描かれる。
例えば、
卓上の花束からヒイラギの葉っぱを一枚取り、ケーキを片手でもった。そしてケーキを指の上ですばやく回転させながら、もう一方の手で、ヒイラギの葉っぱのとがった先を渦巻きに触れさせた。
「聴いてごらん!……」
シックは耳を澄ませた。それはデューク・エリントンの編曲による「クロエ」だった。
(中略)その中には、シックのためにパルトルの新しい論文、コランのためにクロエとのデートの約束が入っていたのだった。
ヴィアンが、作者の言葉として本書の前書きに記した以下の言葉がそのまま現れている。
大切なことは二つだけ。どんな流儀であれ、きれいな女の子相手の恋愛。そしてニューオーリンズの音楽、つまりデューク・エリントンの音楽。ほかのものは消えていい。なぜなら醜いから。
はかなく消える運命に抗い摩耗する中で、コランたち(そして読者)はこの世界に潜む影(=醜いもの)を見つける。しかしそれも世界の一部であるのだ。
儚く悲痛な物語の中に文学の美しさ、想像力の地平を広げるこの作品は、個人的には『赤と黒』以来のベスト作品だった。
映画『ムード・インディゴ うたかたの日々』。これを観てから小説を読むと、コランはロマン・デュリス、クロエはオドレイ・トトゥで脳内変換される。
*1:本書の解説より