群島の日誌

フランスの展覧会感想や読んだ本の感想など。写真展と近代・現代アート中心の予定です。

アレクサンドル・デュマ・ペール『三銃士』/ 理想の騎士ではない銃士たちの冒険物語

仏文50チャレンジ第5回の感想は、第13位の『三銃士』(岩波書店生島遼一訳)についてです。

 

前回『モンテ=クリスト伯』の感想はこちらから。

guntou.hatenablog.com

 

あらすじ

「これから、われわれ《四人一体》これを標語にしようではないか?」

「しかし」ポルトスはまだ腑に落ちないらしかった。

「手を出して、誓いたまえ」アトスとアラミスが同時にうながした。

ほかの者のするのを見て、まだぶつぶつつぶやきつつも、ポルトスは手をさし伸べて、四人一緒にダルタニャンの言った標語を誦した――《四人一体》。

 

ガスコーニュ出身の小貴族ダルタニャンは、立身出世を夢見てパリへ上京する。国王ルイ13世直属近衛兵の銃士隊長であるトレヴィル、そして銃士であるアトス、アラミス、ポルトスと出会い、枢機官リシュリユーによるさまざまな陰謀に立ち向かうこととなる。

 

『三銃士』は現在まで読み継がれ映画やアニメなどさまざまな形でも引用され続けている、まさにフランス文学の名作の一つだ。

ただ、実際に原作をちゃんと読むのは初めてだった。子供の頃たしかアニメ三銃士を見ていたような気もするが、前髪のボリューム以外は覚えていない。

 

読んでみると、『モンテ=クリスト伯』が、物語の開始から知略を張り巡らせ徐々に相手を追い込んでいくのに対し、『三銃士』のストーリー自体はとてもシンプルで、ほぼ一本線で進んでいく。

 

しかし、その人物の相関図は単調ではない。

例えば、ダルタニャンや三銃士は枢機官リシュリユーと敵対関係にある。が、当然どちらも王と国家に仕える身であり、イギリスとの戦争においては味方同士となる。

 

さらに本作ではイギリス側の宰相バッキンガム公とフランス王妃アンヌ・ドートリッシュが恋愛関係にあるため、王妃の危機(というか不倫の尻拭い・・・)を救うためには敵であるイギリスに渡り協力を求めなくてはならない。

 

敵・味方を超えた清々しい友情と言えなくもないが、純粋にフランスの繁栄を進めたいリシュリユーと、状況によっては敵とも通じ合うダルタニャン。果たしてどちらが正義なのだろうか。

 

f:id:andy_1221:20210502070251j:plain

フランス国立図書館に保管されているVivant BEAUCEによる『三銃士』の挿絵

©︎ Bibliothèque nationale de France

 

近代文学としての『三銃士』

本作が発表されたのは1844年だが、物語はルイ13世が統べる17世紀のフランスを舞台としている。

ダルタニャンをはじめ多くの実在の人物や歴史上の出来事を参照しつつ、デュマはこの物語を「19世紀の読み物」として新たに生み出している。

 

それが読み取れるのは、登場人物たちの立ち振る舞いだろう。

三銃士とダルタニャンは、それぞれ国王や上司であるトレヴィルへの大きな敬意を持っているが、彼らは封建的な主君への奉仕を全うする理想的な騎士ではなく、「市民化」され、自身の「機智や才覚」を存分に発揮している*1

 

また、ダルタニャンは恋のため、アトスは過去の清算、アラミスは聖俗の間で揺れ動き、ポルトスは密かに恋人がもつ資産を狙っているなど、それぞれの意思や思惑が行動に反映され、人間味あふれるキャラクターとして描かれる。

 

有名な句「Tous pour un, un pour tous(一人は皆のため、皆は一人のため。生島氏訳の岩波文庫ではシンプルに四人一体となっている)」にしても、そもそも彼らは王直属の近衛兵なのであり、一人も全員もその命は王と国家に捧げられているはずだ。もちろん使用された文脈もあるが、仲間内だけの誓いを立てるあたり、彼らは自分たちにも自由があることを知っている。

 

つまり『三銃士』は命をかけフランスのために戦う銃士の物語ではなく、各人物が個々の志のために時には国家が歓迎しそうにない行動ですら選択する、極めて自由な観点が取り込まれている。その意味で19世紀の読み物として相応しい近代性が付与されているとも言える。

 

mon Dieu, c’est moi(私の神は私だ)

f:id:andy_1221:20210502080134p:plain

ミレディーに跪くフェントン

via Wikimedia Commons

個々の立ち振る舞いに加え、もう一つ、キリスト教の取り扱いについても注目しておきたい。

そもそも『三銃士』では、誰しもに信仰は存在するものの、世俗化も同時に進んでいる様子も窺える。枢機官というカトリックの高位にあるものが悪役という設定からして、挑戦的でもある。

 

三銃士の一人アラミスは、聖職者に道へ進むことを常に考え、神学やラテン語の知識も持つ存在であるが、恋人の便りが届かない時に僧籍を思い、届いた途端にそれを放り出すような、割と俗人として描かれている。

 

また本作一の悪役とも言えるミレディーによる宗教の弄びも注目しておくと、彼女は

 

《なんという愚かな狂信者!あたしの神だって、あたしの神は・・・・・・この、あたし自身なんだ。そして、あたしの復讐を助けてくれるその人間も――》 

 

と言い放ち、イギリス側においては純真な新教徒に成り済まし、自分の監視者フェントンを洗脳し、フランス側においてはカトリック修道院で尼層をすっかり自分の味方に引き入れる。

フェントンは史実においてもバッキンガム公を暗殺した実在の人物だが、本作では深い信仰心をミレディーに逆に利用される。迫真の訴えで相手を追い込むミレディーと、心が折れるまで圧倒されるフェントンのやりとりは、デュマの劇作家としてのセリフ運びが存分に味わえる一幕だ。

 

「お許しください、許してください」フェルトンは現心もなく口走っている。

ミレディーはその眼を見つめて、はっきりと読みとることができた。《恋》――

「何を許すのです?」

「あなたを苦しめる人間に味方したことです」

ミレディーは手をさしのべた。

「こんなに美しい、若いあなたを!」フェルトンはその手に接吻を浴びせた。

女はその一瞥で奴隷を王侯にしてしまうことさえできる眼つきを、じいっと相手におくった。

 

作中でもフランスの新教徒ユグノーへの包囲が行われるなど、新旧教徒の対立があるなか、信仰すらも手段として利用するミレディーの狡猾さは、ある意味モンテ=クリスト伯にも通じるところがあり、魅力的にすら映る。

ルイ13世の父であり先王であるアンリ4世が、国内の分断を融和につとめ暗殺されたことを思うと、彼女の放つ光は一層強く際立つ。

 

おわりに

正直に言えば、駒が一歩ずつ動いていく緊張感のある『モンテ=クリスト伯』の方が好きではあるが、エンタメ要素も含み単なる勧善懲悪の話に止まらない『三銃士』は読み手を惹きつける力がある。

子供の頃に読めばユーモラスな銃士の友情物語として記憶していたかもしれないが、大人になってから読んだからこそ気づく点もある。

初読でも再読でもおすすめできる冒険小説だ。

 

*1:訳者生島氏による巻末解説より