アレクサンドル・デュマ・ペール『モンテ=クリスト伯』/ 金と計略(と時々ハシシ)、復讐劇の傑作
仏文50チャレンジ第4回の感想は、第12位の『モンテ=クリスト伯』(講談社文庫、新庄嘉章訳)についてです。結末にも触れているので未読の場合はご注意ください。
前回『カンディード』の感想はこちらから。
あらすじ
では、わたしが心から愛しているお二人が幸福にお暮らしになることを祈ります。そして、神さまが人間に未来を明かしてくださる日までは、人間の知恵は次の言葉につきることをお忘れにならないでください。
『待て、そして希望を持て!』
マルセイユの船乗りであるエドモン・ダンテスは、恋人メルセデスとの婚約の宴の最中に、自分を陥れようとする者たちの罠により捕まり、孤島の牢獄イフ城に入れられてしまう。
獄中に出会った神父の導きにより知識を身につけ、14年の投獄ののちついに脱獄を果たす。神父の言葉通りに発見した財産によりエドモンは「モンテ=クリスト伯爵」となり、自分を陥れたフェルナン、ダングラール、ヴィルフォールへの復讐を開始する。
文庫本全5巻で計2306ページ、束ねれば立派な鈍器となる壮大な復讐劇の傑作である。有名な作品だけあり、あらすじはよく知られたところだが、実際は1巻のうちに脱獄までストーリーがすすむ。残りの4巻は、登場人物がさまざまな関係性を築く中、モンテ=クリスト伯爵がひたすら金と計略(と時々ハシシ)を駆使し3人を追いやり破滅させる過程が描かれる。
主要な登場人物を整理しておくと、
エドモン・ダンテス:モレル商会の航海士。14年の投獄後、モンテ=クリスト伯爵として姿を表す。
フェルナン:漁師から軍役を経て出世し、モルセール伯爵へ。エドモンの恋人であるメルセデスと結婚する。
夫人:メルセデス
子供:アルベール
ダングラール:エドモンと同じモレル商会の会計士から銀行家として成功。男爵の爵位を得る。
夫人:エルミーヌ
子供:ユージェニー
ヴィルフォール:検事代理、保身のためエドモンをイフ城に送り込む。その後パリで検事総長に就任。
夫人:ルネ
子供:ヴァランティーヌ
夫人(再婚):エロイーズ
子供:エドゥワール
時々ハシシと書いたが、作者デュマとハシシについて非常に興味深い指摘があるので、以下に引用してみる。
また、1840年代、フランスにおいて急に芸術家達の間で大麻吸煙の風習が流行した。(略)1850年代にパリのホテル「ピモダン」において「大麻クラブ (Le Club des Hachichins)」が生まれ、会員としてゴーチェ、パルザック、ボードレール、大デュマらの作家がいた。デュマの「モンテ・クリスト伯」の中には大麻の媚薬的効果の詳細な記述がなされており有名となった。この過程でいわゆるDrug Novelが流行した。*1
デュマは、他の大作家たちと共にハシシクラブの会員だったようだ。「大麻の媚薬的効果」については、フランツ(アルベールの友人)が体験する神秘的な幻覚効果が数ページにわたって描写されている。
それは、予言者が選ばれた人たちに約束したような、絶え間ない逸楽であり、休みない愛撫だった。そして、石像のすべての唇が息づき、すべての胸が熱くなり、ついに、はじめてハシッシュの力を知ったフランツの飢えかわいた唇の上に、蛇のように冷たくてしなやかな立像の唇がふれるのを感じた時、その愛撫はほとんど息苦しくなり、その逸楽はほとんど拷問のように思われてきた。だが、生まれてはじめて経験したこうした愛撫を、腕でしりぞけようとすればするほど、彼の感覚は、ますます、神秘的な夢の魅力に引きこまれて行った。
おそらく大麻も含め薬物の効果に興味を持っていたのか、『モンテ・クリスト伯』にも複数の薬物が登場し、物語上で生じる相続をめぐっての毒殺や、『ロミオとジュリエット』をなぞるヴァランティーヌの薬による仮死のプロットの土台となっている。
ロマン主義と再びナポレオン
ナポレオン百日天下後の失脚により再び王政復古を得た貴族社会において、中東から極東まで知り尽くすモンテ・クリスト伯爵は、その貴族プロトコルとヨーロッパの歴史を共有しうる存在なのか明らかではない、実に奇妙な人物として描かれる。それは旧来の古典主義からの、新たな波となっていたロマン主義への視線と重なっているかもしれない。
それにしても今作でもナポレオンの存在は非常に大きい。エドモンが流刑に処され、脱出ののち再びフランスに戻るという流れもナポレオンの動きをなぞっている。
さらに作中では、ナポレオンは王権派の貴族から「簒奪者(Usurpateur)」、すなわちフランスから王位を奪ったものという名で呼称されている。
そしてエドモンも、フェルナンからは地位と名誉を、銀行家ダングラールからは金を、検事総長ヴィルフォールからは理性を奪うことに成功する。彼の復讐は、3人の命ではなく、彼らを象徴するこれらの所有物・性質を「簒奪」することで完遂されるのだ。
『モンテ=クリスト伯』の年表はこんな感じ。作中の社会情勢は実際のフランス史になぞっている。
1815年 |
|
1829年 |
2月エドモン脱獄 |
1830年 | 7月革命によりシャルル10世が退位、ルイ・フィリップが即位 |
1838年 | モンテ・クリスト伯爵がローマでアルベールとフランツと出会う。その後パリへ移る。 |
世代交代の物語
『モンテ=クリスト伯』では、この復讐という主軸に対し、第1世代(エドモン、メルセデス、復讐される3人)と第2世代(それぞれの子供たち)が複雑に絡み合うヒューマンドラマが第1巻後2000ページにわたって展開されている。
他者を裏切り蹴り落とし財と地位を築いた成り上がりの第1世代に対し、元から貴族・ブルジョワとして生まれた子供たちは、その価値観を共有しない。
アルベール、ヴィランティーヌ、ユージェニーに共通するのは、自らの大義ーすなわちアルベールにとっては母メルセデスと自分の誇り、ヴァランティーヌは身分違いの恋人マクシミリヤン、ユージェニーは芸術家としての人生ーのためには財産や地位を放棄することを厭わず、そして最終的には全員が親から離れる選択をすることにある。
特にユージェニーは、自身の結婚が破綻した途端に友人ルイーズと家出(あるいは駆け落ち)を決行する。この二人は同性愛的関係とも読み取れる箇所もあるが、むしろこの時代に一人の女性として自由に生きるためのシスターフッドの現れと見ても良いかもしれない(そしてそれが実に困難である点も描かれている)。
世代の話に戻すと、エドモンの優しい実父は息子の帰りを待ちながら絶望の中死んでしてしまう。また牢獄のエドモンに善悪の区別と知恵、財産を授け、第二の父となったファリア神父は、その死によってエドモンに脱獄の機会を与える。
エドモンは復讐の手段と決意を共に手に入れることとなり、ゼロ世代とも言える二人の犠牲は次世代であるエドモンの物語を大きく動かす。
古い世代が去り、新しい世代が新たな人生を切り開く。世代交代はヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』にも共通している点だ。革命とナポレオンを経験したフランスでは、この社会の転換が文学において重要な主題の一つだったのだろう。
おわりに
『モンテ=クリスト伯』が持つ魅力は、アレクサンドル・デュマ・ペールの展開構成力と無駄のない剛柔併せ持つ筆致だと感じている。
伯爵が復讐を終えパリを去ろうとする場面でのこの描写など、その力強さが現れている。この部分に関しては、エドモンが海に落ちて脱獄したことを考えると、パリでの復讐を終え、ようやく「すべてをのみこむ波」から脱出したことが表されているだろう。
夜の空には星が輝いていた。ここは、ヴィルジュイフの坂をのぼりきったところで、この丘から見おろされるパリは、まるで暗い海のようで、燐光の波のような無数の灯火をちらつかせていた。それはまさに波だった。荒れ狂う大洋の波よりもさらに騒がしい、さらにはげしい、さらに揺れ動く、さらに狂おしい、さらに飽くことを知らぬ波だった。大海の大波のように静まることを知らない波、常にぶつかり合い、常に泡だちさわぎ、常にすべてをのみこむ波だった!
また、復讐が武力ではなく、桁外れの資金力と相手の何歩も先をゆく知略によってこそ成し遂げられるその切り口は読者を圧倒し、2300ページを最後まで読み進めさせる。そして3人の破滅を引き出さんとする執念と数々の葛藤を繰り返すエドモンも、心惹きつけるダークヒーローとして描かれている。
張り巡らせた仕掛けが大きく動き始める第4巻中盤からは本当に一気読みできるほどで、誰にもおすすめできる傑作だ。
ヴォルテール『カンディード』/ 苦難の果てに「私たち」が集う物語
仏文50チャレンジ第3回の感想は、第11位のヴォルテール『カンディード』(光文社古典新訳文庫、斉藤悦則訳)についてです。
前回『ベラミ』の感想はこちらから。
あらすじ
ドイツ・ウェストファリアのツンダー・テン・トロンク城にて、領主の甥であるカンディードは、領主の娘クネゴンデに口づけをしたことが見つかり、尻を蹴られて暮らしていた城から追放される。
哲学者パングロスの教えに従い「あらゆるものは最善の状態にある」という最善説を信じるカンディードは、戦禍や大地震、異端裁判など度重なる苦境を潜り抜け、ヨーロッパから南米へと巡り、そして再びヨーロッパへと戻ってくる。
全ては最善である、のか?
1759年に刊行された本書は、七年戦争(1754年-1763年)の最中であり、またフランス国内で戦争による財政悪化や啓蒙主義の発展などフランス革命への下地が築かれる中であった。
物語の主軸となるのは、「全能で善なる神が選択したこの世界は、したがって最善である」というライプニッツ哲学に基づく最善説である。
そしてこの主軸は、宗教対立、異端裁判と火あぶり刑、暗躍する修道士、リスボン地震、植民地と奴隷、梅毒、王位を奪われた者たちなど、当時の様々な現実によって取り囲まれている。*1
最善なる世界に、悪は存在し得ない。なぜなら悪の存在は、神の全能さを否定するものだからだ。ではカンディードたちを苦しめ翻弄するこれらの存在や現象は一体何なのか?これらの過酷な現実も、神の思し召しによるものであり、やはり全ては最善なのか?
『カンディード 』は、この疑問によって最善説への信仰が揺さぶられる様が、そのままストーリーとなったものとも言える。その意味では、遠藤周作の『沈黙』と物語のイメージは近いかもしれない。
旧世界(ヨーロッパ)と新世界(南米)の行く先々で、これらの現実を反映した事件に巻き込まれ、出会いと別れを繰り返し、なんとか潜り抜けつつ生き延びるさまは、まるで『タンタンの冒険』のような冒険劇のようでもあるが、所々に散りばめられるナンセンスさや不条理さは、割とドス黒さがある(後半に割となんでも金で解決してしまうあたりとかも含めて)。
死を回避し復活を繰り返す者たち
この作品では、死んだとされた登場人物が実は死んでいなかった、あるいは生き返ったという仕掛けが複数登場する。
例えば、
- クネゴンデはブルガリア兵に辱められたあげく、腹を切り裂かれた死んだ、とパングロスは説明するが、実際そのブルガリア兵士は上官によって殺されておりクネゴンデは助かっている。
- そのクネゴンデが「喉をかき切られた」と話す彼女の兄は、埋葬の際になってイエズス会の神父に救われ、3週間で傷を癒し自身も神父になる。
- パングロスは、絞首刑に処されたのち解剖の献体として買い取られ、胸を十字に切り裂かれた際、叫び声を上げて復活する。
こんな形で、カンディード含め主要な人物たちは確固たる死を回避し続け、また復活においても、伏線も何もなく一度退場したものたちが行く先々に再配置・再利用されている。
このキャラクターの不死性は、100tハンマーで殴られても死なない、(ドリフ的な)斬られても斬られても死なないキャラクターなど、今の視点で考えると割とベーシックなギャグコードだろう。死なないということは、それだけで物語を面白くするのだ。『カンディード』はそのコードを繰り返し使用する。
そういえば、先に『タンタンの冒険』のようと書いたが、タンタンや主要な登場人物もまた死を免れた者たちであるし、パングロスの信念が強いあまり現実に動じないちょっとおとぼけな姿はビーカー教授と重なる。
誰も真実を把握できない
もう一つ、『カンディード』で繰り返される死と復活は、誰も真実を把握できていない、ということも表しているかもしれない。 耳にすることはおろか、自分で目にすることでさえ、大概間違っており、人の認識がいかに曖昧なものであるかが常に例示されている。
そんな中で、「最善説」のみを信じ続けることができるだろうか。しかもその説でさえ、結局はパングロスの講義による受け売りなのだ。
何より、あれほどまでに探し求めたクネゴンデに対しても、時を経て容姿が変わってしまった後には、「心の底では、クネゴンデと結婚したいなどとは少しも思っていなかった」と言ってしまうのだから。
カンディードの苦難の旅路と別れと再会は、そのすべてを持って最善説への疑義、つまり「とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ」と言う最後の一言へと至るようにできている。
「とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ」
『カンディード』の最後は、この読者への投げかけられる有名な句によって締め括られている。
パングロスが「これまでの苦難のおかげで今がある、やはり全ては最善だ」と語るのに対し、カンディードは、次のように言う。
「お話はけっこうですが」カンディードは答えた。「とにかく、ぼくたち、自分の畑を耕さなきゃ」
これはカンディードがついに「最善説」を横に置けるようになった変化を表している。
原文では、
Cela est bien dit, répondit Candide, mais il faut cultiver notre jardin.
となっている。
訳では「自分の畑」となっているが、原文では「notre jardin」=「私たちの庭(畑)」であり、「mon jardin」=「私の庭(畑)」でないことに、個人的には注目しておきたい。
最後まで最善説を説こうとするパングロスを、「いえ、私は私の畑を耕さなければいけませんので」と拒絶をしているわけではなく、パングロスも畑を共有する一人であることが示されている。
全能なる神による最善なる世界を最後に疑いはしても、神そのものを否定し、共同体から独立し完全に個人に至るまでではないのだ。
この点について、解説を記した渡名喜庸哲氏は以下のように論じている。
「土地を耕す」ための「二本の腕」と「理性のかすかな光」とを与えられた私たちができることは、働きながら、「自然」の声に耳を傾け、自らの弱さと無知とを自覚しつつ、たがいに助け合うことだということになるだろう。意見が異なるものがいるとしても、そうした多様性こそが「自然」の命じたところであるのだから、われわれはそうした他者の存在を許容して、対話を続けなければならないということだ。
ストーリー内の死なない人物たちは、議論が決裂しても、その意見そのものは消滅させてはならないことの比喩とも言えるだろうか。そしてたとえ真理に辿り着かなくとも、探究をやめてはならない、そして対話を続けなくてはならない。
さらに、以下のように続く。
その意味で、カンディードが数々の苦難の末に自分自身の「畑」にたどり着いたとき、クネゴンデはもうかつてのように美しくなかったかもしれないけれど、彼がロビンソン・クルーソーのようにたった一人ではなかったということ、このことは多いに示唆に富んでいると思われる。
対話には他者の存在が不可欠である。登場人物たちが、旧世界と新世界で様々な運命に翻弄されつつも、死を回避し再会を繰り返すのは、最後にこの「畑」に集う「私たち」になるためだったのではないだろうか。そして、自分の畑を耕す意味は、今もなお変わらず存在し続けている。
ギ・ド・モーパッサン『ベラミ』/ 「悪漢の種子」の成長譚
仏文50チャレンジ第2回の感想は、第10位のギ・ド・モーパッサン『ベラミ』(角川文庫、中村佳子訳)についてです。
前回『赤と黒』の感想はこちらから。
『ベラミ』は、パリでくすぶっていた主人公ジョルジュ・デュロワが、新聞社の記者に就くことをきっかけに、その美貌を武器に女性との情事を重ね、野心を成し遂げていく物語だ。
ベラミ(Bel-Ami)とは「美しい男友達」という意味になり、作品内ではジョルジュを認め惹かれる者たち(ロリーヌ、ド・マレル夫人、ヴァルテール夫人、ヴァルテール社長、そしてシュザンヌ)が使用する呼称となっている。*1
ジョルジュは、相手の女性が変わるたびに新たな地位や資産を手に入れ、社会を上昇していく。この説明だけだと、『赤と黒』の物語、そして主人公ジュリアン・ソレルが思い出されるが、実際読んでみると、志や気位の高さを持つジュリアンに対し、ジョルジュは人としてのえげつなさが際立つ。
恩人である友人の死に「思ったよりあっけなかった」と呟き、自分を非難する女を殴り倒し、不倫相手の主人を前に「おいおいおじさん、おれはあんたの女房を寝取ったんだよ、寝取っちゃったんだよ」と心で嘲り悦に入る、など。
そしてゲスさは物語とともに加速する。
ジョルジュは、何にも勝る出世欲のもと、「なに事かをきっかけに成功できる」という自信を持ってパリにやってきた。そのきっかけというのが、「偶然に道で出会った銀行家か大地主の娘の心をいっぺんに征服して結婚する」という設定だったりするあたり、ナルシシズムが完成されている。しかし『ベラミ』とは結局、この妄想設定を実現し続ける物語なのだ。
物語序盤ではその成功に程遠いのだが、「ぼくに足りないのはやる気じゃない、手立てだ」という弁にあるように、手立て(les moyens)、つまり手段が見つかっていない、という自己評価を下している。
逆に言えば、手段が見つかれば社会で成り上がれると確信している。重要なのは自身がどう振る舞うかではなく、「手段」である他者が存在するかどうかであり、そして他者の存在こそが、彼の意識や行動を導き、さらなる野心を抱かせるのだ。*2
美しき 「悪漢の種子」
作者であるモーパッサンは、ジョルジュの人物像について、
私は、最初の行から、悪漢の種子の存在を提示しており、その種子は落ちた大地で成長する。その大地とは新聞のことだ。
ジョルジュは自分の未来を女性に託している。ベラミというタイトルが、それを十分に示唆していないだろうか?
と語っている。*3
種子に、芽生えよ伸びよという意志はいらない。条件や環境が合えば自然と生まれいづるものであり、あとは光の指す方へ伸びていくだけなのだ。
ジョルジュの天井知らずの欲望と他者を道具に自己実現をなすその性格を非常に的確に表している。
とは言え、ジョルジュは何も持っていない凡人なわけではない。彼は類稀な美貌を持っているのだ。
軍役時代の同僚であり、ジョルジュに記者の仕事を紹介する(つまり最初の手段としての他者である)友人シャルル・フォレスティエの夕食会に呼ばれ、物語の主要人物(この後に手段となる人々)と面会する場面の描写は非常に面白い。
ゆっくりと階段をのぼる。動悸がした。気が重く、なにより笑われるんじゃないかという恐れに苛まれていた。すると、突然、目の前に見事な身だしなみの紳士がおり、じっとこちらを覗っているのに気がついた。距離があんまり近かったので、デュロワはうしろに退がった。そうしてあっと固まった。それは鏡に映った自分自身だった。背の高い姿見が二階の踊り場を長い廊下に見せている。喜びにぶるりと震えた。思っていたよりましだと思った。
他人、特に今の自分より上層にいる者からの嘲笑は、プライドが高いジョルジュにとっては耐え難い屈辱であり、恐れすら引き起こす。その恐怖が投影され、自分の姿を別人に錯覚させるのだが、その恐怖と錯覚を剥ぎ取り真の姿に導くのは、自分の美貌なのだ。
ナルキッソスは水面に映る美しい自分の姿がその身を滅ぼしたが、ジョルジュはそれがパリでも自分の身を救う切り札と確信した。
うだつの上がらない日々からの脱却が始まるのは、まさに階段に登りつつ上昇する術を再発見するこの瞬間であり、個人的にこのシーンは気に入っている。
欲望の転換
ここで、『赤と黒』以降となる19世紀後半のフランスの歴史を簡単に見ておきたい。
1848年 | 二月革命によりルイ=ナポレオン(のちのナポレオン三世)が大統領に選出、第二共和制開始 |
1852年 | ルイ=ナポレオンがクーデターを起こし、皇帝ナポレオン3世として即位、第二帝政開始 |
1853年 | ジョルジュ・オスマンがセーヌ県知事に就任(1870年まで)、パリの都市改造計画を推進 |
1870年 | プロイセンに宣戦布告し普仏戦争が開戦するも、フランス敗北、ナポレオン3世は捕虜となり廃位しイギリスに亡命、第三共和制開始 |
1871年 | パリ・コミューン(3月から5月まで) |
1885年 | 『ベラミ』発表 |
1889年 | エッフェル塔竣工 |
1894年 | ドレフュス事件 |
本作が発表されたのは、普仏戦争の敗北とナポレオン3世の亡命により帝政が終了し、第三共和制が開始した時代となっている。
先に引用した島本孝治氏の論考で、ジョルジュの欲望の転換について触れられている。
最初には野心と愛との間の価値基準で、次のように語っている。
それでも人生には唯一のことがある。愛だ!愛する女をこの手に抱くこと!それこそが、人間がぎりぎり得られる幸せなのだ
しかし、物語が進んだ先には、野心が勝利しエゴイズムに取り憑かれることになる。
気を揉むなんて、莫迦のすることだ。自分のことだけ考えてりゃいいんだ。ずうずうしい人間が勝つんだ。所詮、すべてのものはエゴイズムだ。それなら、女や愛に対するエゴイズムより、野心や金に対するエゴイズムのほうがいい
この転換から島本氏は、ジョルジュを革命後のフランスで大きな権力を持つこととなったブルジョワジーと結びつけ、当時の社会のカリカチュアであることを説明している。
『赤と黒』では、ジュリアンが貴族や聖職者の道によって社会の上層へ至ることを希求し、やがて転落することでそれらへの痛烈な批判を展開した。50年後に描かれた『ベラミ』では、この社会の上層がブルジョワジーに取って代わられた世界であり、ジョルジュの価値観の転換は、社会構成の転換と同期している。*4
個々の心理描写に重点を置き、風俗的な描写を省略したスタンダールに対し、モーパッサンはジョルジュのゲスさとパリという都市の持つある種の猥雑さをリンクさせ、その生活の匂いをそのまま描写している。ジョルジュの生々しい欲望は、そのままその時代のパリ、そしてそれを牛耳るブルジョワジーの投影だと気付かされる。
周縁から中心へ移動
作中に登場する場所は、そのほとんどで具体的な通りや住所が示されている。例えば、
8区 |
- ジョルジュの逢引き部屋があるコンスタンティノープル通り - ジョルジュとヴァルテール夫人が会うモンソー公園 - ヴァルテール家が最初に住むマルゼルブ大通り(あるいは17区) - ヴァルテール家が引っ越すフォーブール・サン=トノレ通り - ジョルジュとシュザンヌが結婚するマドレーヌ寺院 |
9区 |
- ジョルジュとシャルルが最初に訪れる「フォリー・ベルジェール」 - 新聞社「ラ・ヴィ・フランセーズ」があるポワソニエール大通り - シャルルとマドレーヌが住むフォンテーヌ通り - ジョルジュとヴァルテール夫人が会うサント・トリニテ教会 - マドレーヌとラロッシュ=マチユの使用するホテルがあるマルティール通り |
17区 |
- ジョルジュが最初に住んでいるブルソー通り |
18区 |
- ジョルジュとド・マレル夫人が通う店「ラ・レーヌ・ブランシュ」(現在のムーラン・ルージュのある場所) - ジョルジュと離婚後のマドレーヌが住むモンマルトル |
これらは全てセーヌ右岸が舞台であり、左岸で出てくるのはド・マレル夫人が住むヴェルヌイユ通りとノルベール・ド・ヴァレンヌが住むブルゴーニュ通り(いずれも7区)くらいだった気がする。
代表的な舞台を地図にマッピングしてみた(1枚目は現在の地図、2枚目は当時の地図)。
ジョルジュの最初の部屋があるブルソー通り、バティニョールと呼ばれる地区は、当時のパリでは周縁に等しい。『ベラミ』はこの周縁に始まり、右岸をさまざま移動しながら、最終的にマドレーヌ寺院などパリの中心へと移動する物語となっている。
これは、ジョルジュの出身地であるルーアンからパリへの移動に始まる。そして、このルーアン→パリの北から南(北西から南東)への移動は、バティニョール→マドレーヌ寺院への方位と重なる。またヴァルテール家も同じく、マルゼルブ大通りからフォーブール・サン=トノレ通りという中心部へ南下している。
一方、最初の妻マドレーヌは、ラロッシュ=マチユ大臣との不倫現場をジョルジュと警察に押さえられ、大臣共々物語から退場する。彼女は物語の最後にポワソニエール通りからモンマルトルへ引っ越していることが明かされ、これは地図で言えば北上(=周縁に向かっての移動)にあたり、場所と人物の上昇あるいは転落がリンクしているように思える。
ちなみにこの不倫現場突入の場所となったのが、マルティール通り(Rue des Martyrs)で、「殉教者たちの通り」という意味だったりするのが苦々しい。
コンコルド広場
場所について、もう一つ面白いと感じたのは、ジョルジュは勤務先の新聞社の社長令嬢であるシュザンヌをたぶらかし、自分と駆け落ちをさせ、コンコルド広場で落ち合う約束をする。この場所は、フランス革命の際ルイ16世と王妃マリー・アントワネットが処刑された場所だ。
この駆け落ちが失敗すれば、シュザンヌはともかくその先に約束されている巨額の相続はもちろん新聞社での仕事も失ってしまう。首がかかった賭けの場所としては最適な場所と言える。
結果として、ジョルジュはこの賭けに勝利し、作品内で最大の成功者であったヴァルテールをも屈服させることに成功し、作中の最大の高みに至る。その姿はまさに神に祝福された支配者・征服者であり、姓であるデュロワ(Duroy)がその内に含む「王(roi)」が具現化した形となった。
しかし同時に、この100年の革命の歴史にあるように、もはやフランスで「王」は長く存在しえない。「王」となった以上、ジョルジュの転落もやはり約束されているのだろう。
おわりに
最初に読んだときはジョルジュの人間性に衝撃を受けるが、それ以外の部分にもKindleでハイライトした文章は非常に多かったことに気づく。島本氏の論考のおかげでそれらの道筋が掴めるような感覚があり、途端にこの作品の印象が変わった。40年前に書かれたこのテキストには感謝するばかりだ。
本書の訳者中村佳子氏(ウェルベックの訳者でもある)は、あとがきで、「モーパッサンが、ベラミというヒーローに託した闘いとはなんだったのか?果たしてベラミは勝ったのか?それを考えるのが『ベラミ』の醍醐味なのだ」と書く。
ジョルジュのクズっぷりを受け止めた先に、あちこちに散りばめられたモーパッサンの眼差しが見えてくる。
*1:最初の妻となるマドレーヌが彼を「ベラミ」と呼ばないのは、彼女がジョルジュに屈服しない側の人間であることを表しているだろう
*2:島本孝治、『ベラミ』における欲望の形成とその変容 - 広島大学 学術情報リポジトリ
*3:Guy de Maupassant, Aux critiques de « Bel-Ami »
*4:フランスの名前でド・マレル=de Marelleのようにdeが姓の前につくのは、貴族とのつながりを意味する。マドレーヌは、この貴族名を「きらきら輝くものや、響きのいいもの」と呼んでおり、『赤と黒』の時代とはずいぶん価値観が変化している。またヴァルテールは困窮した貴族から家を買い取る点も社会構成の転換の一例だろう